舟屋の宿 2016/08/20~21 そして ちょっとだけ離れた 「徐福上陸岩」・・・・といわれる新井崎神社へ 調べると・・ 「徐福」は中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。 殆ど日本中(佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県)にその足跡を残した。 今流にいうと集団移民(3000人とも言われる)大船団で童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとのこと。 方士とはなんぞや? (呪術師,祈祷師,薬剤師,占星術・天文学に秀でた学者) 始皇帝は不老不死の薬を探し求めていたところ,徐郷県(山東省龍口市)で徐福と出会う。 始皇帝をいいくるめて資金を出させ大船団で集団移民してきたというわけ。 要するに不老不死薬など最初から無いと知りつつ日本に移住してきた言わばペテン師 徐福といったら言い過ぎか? お蔭で日本には最新の文化・技術・知識が渡ってきたが・・・ 伊根の沖12km程の冠島(大島)は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)の降臨地といわれており,ここに生える黒茎の蓬(くろくきのよもぎ)や九節の菖蒲(しょうぶ)が徐福の求めた不老不死の仙薬と言われています。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ,丹後半島へ上陸したようです。「天火明命」は丹後の宮津市にあり伊勢神宮の元になったとされている元伊勢籠(この)神社の祭神ともなっている。 中国には,徐福=神武天皇とする説もあって徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。 以上はネットサーフィンで誰でも得られる情報です。 吾輩の一番の驚きは 徐福は日本ではその子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在することだ。 伏見稲荷大社の始祖もたしか「秦」(はた)と称した百工(多くの技術者)を従えていたという どこまで本当かということもあるが・・古代はおもろいな〜〜丹後にはこんな話がごろごろある。 |